こんにちは ケラアンです(=´ω`)ノ
この朽ちかけた大きな構造物は、十勝管内大樹町の旭浜にある戦時中(終戦間近)に造られたもので『トーチカ』というものです。
【トーチカ】
ロシア語で(точка トーチュカ)「点、地点」の意味で、軍事的には重要な地点を守るためコンクリートなどを固めて造った小型の防衛用陣地を指す。
十勝の沿岸、主に大樹町の浜にはコンクリートの固まりが散乱する不思議な光景が見られる。それが『トーチカ』と名付けられた防衛陣地と知ったのは、始めてみた時よりもずっと後のことです。
『戦争は良くない』とわかっていても戦後しばらく後の生まれで実感はなく、戦争を知るのは書籍やTV、あるいは映画でしか見ることがない。
負の歴史は意図的でないにしても、歴史の一部として要訳されたり、どこか覆い隠すように教えられる、本当の無残さ・悲惨さを知る機会はあまりにも少ないように思います。
あと数年で“戦後”は70年に達しようとしている。
親でさえ直接戦争を知らない世代。
記憶は風化しても遺物の語り部は聞こえてくる。
大樹町の海岸が、防衛拠点と定め建造されたトーチカは、物資の不足から鉄筋は使われず、骨材の砂利も漬物石大の玉石を型の中にどんどん投げ込んだ突貫工事というよりも手抜き工事に等しいものだったらしい。それは大樹のトーチカの基礎部分を見ただけでも素人目でさえわかる。
艦砲射撃1発で粉々に消し飛んでしまうような構造に工事に携わった人達も心の中では『こんなもので守れるわけがない…』と思い、敗戦すら予感していた。
このように戦後も残されているトーチカは日本各地にあるのだろうと思っていましたが、戦後の撤去・再開発などで撤去されたものも多く、大樹町のように破壊されることもなく残されてきた例は珍しいらしい。(護岸工事で失われたものもあるそうです)
トーチカは本来、土の中に埋められてカモフラージュされるものですが、海水の海岸線浸食等により、本体が露わになり、この海岸に奇妙な景色を作りました。
【大樹町トーチカパンフより(要訳・補足)】
大樹町の海岸に点在するトーチカは、太平洋戦争末期の昭和19(1944)年5月、アメリカ軍の本土上陸に備えて、旧日本軍大本営の命令により第七師団が「沿岸築城整備要領」に基づき構築したもので、同年12月までに約40基のトーチカが造られたといわれています。トーチカの構築には地元住民も動員されました。
当初は鉄筋コンクリート製で造られる予定でしたが、資材不足でコンクリートと木枠だけの施工となり、困難を極めました。(資材不足により丸太造りの木製の簡易トーチカも造られた)
昭和20(1945)年8月、このトーチカは1度も使用されることなく終戦を迎えました。
大樹町には海岸線と内陸部にコンクリート製のトーチカが15基確認されています。最も大きなトーチカは、海岸線より500m内陸に位置し、銃眼が2か所あります。(機銃を据えた射撃窓)この位置に造られたのは、敵が海岸線のトーチカ陣地を突破したときの防御拠点としたと考えられています。
この沿岸にトーチカが多いのは、海岸付近まで深い海が続いており、旧日本陸軍がアメリカ軍の上陸有力地点が、この海岸であると想定したからです。
十勝沿岸には、ほかにも広尾町、豊頃町、浦幌町の海岸にトーチカがあり、更にもう1つの上陸有力地点だった根室半島にまで点在していました。
構築当時は土に埋まっていたトーチカも長い年月の経過で、海岸浸食や風化が進み、数度の地震による地すべりなどで向きや傾きも変わり、波打ち際で砂に埋まっているもの、雑草に埋もれコンクリートの肌の一部しか見られないもの、更には護岸工事や開発などにより失われたトーチカもあります。
わたしたちはこの戦争の遺跡を保存していくことで、自国の歴史を正しく見つめ、戦争の惨禍を二度と繰り返さないよう、後世に語り伝えたいと考えています。
空気と同じように当たり前に考えてしまいがちな「平和」。
そのあり方をこの浜で自分なりに考えてみるのも良いと思います。
トーチカは、元々海を見ていたものですが、現在ここにある多くのトーチカはむしろ陸の方を見ているようです。
大樹町観光協会
情報欄のURLから 『大樹町公式HP』→トップページ→総合案内-目的から情報を探す→教育→文化→大樹町の史跡 の順で「大樹町のトーチカ」パンフレット(PDF版)をご覧になれます。 トーチカまでのMAPも掲載。
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