- 2013-08-23 (金) 19:23
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- 投稿者:ケラアン
file.5 ピョウタンの滝
十勝の南部に位置し、北海道内で最も人口が多いとされる村、キャッチフレーズは“花と緑とアートの村”。
それが「中札内村」。『札内川』の中流に位置することから中札内と付けられています。
「札内」はアイヌ語の「サッ・ナイ」が語源で『乾いた川』という意味なのだそうです。
十勝野を巡る「札内川」は、村から北西に位置する日高山脈の「札内岳」付近を源流として南東へと流れていく。
道すがら周囲の山々の沢水や支流を集めて徐々に大きい流れになりながら、札内ダムをくぐりぬけ、十勝平野を北東へと向って行く。
やがて帯広市の東部と幕別町との境界を縫うように通り抜けて十勝川へ合流する。
近くの札内橋の上から見降ろす、そのせせらぎに『乾いた川』というイメージはありませんが、この静かな川は、中札内村の歴史上で、とても気分屋なところがあり住民を困らせていた時代があったようです。
そして中札内村のシンボル、札内川園地の「ピョウタンの滝」。
この滝も、その札内川の大暴れにより一夜にして誕生したのです。
母なる川 札内川
札内川は日高山脈の清流を集め、大河となって十勝平野を下る。中札内村を貫流するこの川は、村人にとって『母なる川』であり、村の歴史は、この川を抜きにしては語れない。
しかし、いったん風雨が日高山脈を襲うと札内川は濁流唸る暴れ川に豹変することがたびたびありました。
帯広市の水道水の水源でもある札内川は、全長82㎞、水量は豊かで地下にも豊富な伏流水が流れています。毎年国土交通省が実施している水質調査で、過去に8回『清流日本一』を獲得。
『乾いた川』が清流日本一の名誉…というのも少し妙な感じがしませんか。
この「乾いた…」に該当する場所が川の途中に実際にあったそうです。
現在は浚渫(しゅんせつ:港湾 ・ 河川 ・運河などの底面をさらい土砂などを取り去る 土木工事。河川部では、上流から流されてくる堆積土砂のため川底が浅くなり、河川の流量が確保できなくなることから、治水のために行われることが多い)工事が施されて様変わりしていますが、文字通り「乾いた川」の場所があり、川床が最も高い地点(当時の41号以南52号までとされる)がありました。台風などで流入した土砂で川床が自然上昇した地点も多く、そういった流域が増水時に被害受けやすかった。
下流側が好天であっても、山稜地帯で大雨が降ると轟音を立てて川水が急に押し寄せてくる。
川底の露出した川を横切って向こう岸まで木の実を採っていたら、帰りに来た方を振り返ると、さっきまで乾いていた川に水量がどんどん増していく流れが出現し、あわてて川を渡った当時の住人の話もありました。
また、川砂利採取業者が、作業中にそれまで川床が露出するほどの水量であったのに一気に増水し、逃げ遅れて中州の小高いところから警察・消防に救助される騒ぎももあったのだそうだ。
この増水しやすく、川床の移動も激しい川。増水しても滞水する時間はゼロに等しく、減水も激流と化すため、あらゆるものを押し流していったという。
流れが早く停滞することも少ない。言いかえれば、それ故に淀むことなく清流を保ち、日本最大のケショウヤナギ(環境省のレッドリストでは、2000年に絶滅危惧II類とされていたが、2007年公表では削除)の群生地を作り、方やエゾサンショウウオ(サンショウウオ科サンショウウオ属に分類される有尾類。北海道に生息するサンショウウオは、キタサンショウウオと本種のみ)が生息できる環境を残すことができているのでしょう。
中札内村の開拓史の中には、表だった歴史のほかに治山・治水など、川に関わる記録がたいへん多い。
この広い十勝において、暴れ川の顔を持つ河川は、札内川に限らず多くあり、いずれの町村史を開いても洪水と住民の戦いの様を見ることができる。
札内川に関して氾濫・洪水に関する記述は以下の通りです。
1904(明治37)年9月 札内川洪水
1910(明治43)年6月 札内川の築提始まる。
1913(大正2)年8月 洪水
1913(大正2)年8月 洪水
1915(大正4)年10月 洪水、35号~47号堤防決壊
1917(大正6)年10月 洪水
1922(大正11)年8月 十勝川支流大洪水、開拓以来の洪水となる。
1930(昭和5)年10月 中札内橋完成。
1936(昭和11)年7月 十勝川本支流大洪水、降雨量上札内で162㍉ 既往第3位
1941(昭和16)年9月 中札内橋流失
1941(昭和16)年10月 大川橋流失
1947(昭和22)年9月 9号台風洪水 既往第4位(カスリン台風)
1948(昭和23)年4月 中札内橋落橋(アイオン台風)
1948(昭和23)年8月 21号台風洪水
1951(昭和26)年10月 札内川発電所工事着工
1951(昭和26)年10月 札内川殉難供養地蔵除幕式
1952(昭和27)年6月 上札内橋完成
1953(昭和28)年7月 洪水
1953(昭和28)年9月 洪水
1954(昭和29)年6月 札内川発電所完成、中札内橋架替完工
1955(昭和30)年7月 洪水 完成丸一年の発電所全滅
1957(昭和32)年8月 上札内橋沈下
1962(昭和37)年5月 中札内橋一連15㍍落下
1962(昭和37)年8月 9号台風による洪水、上札内橋落下。既往第2位
中札内橋永久橋化(鉄筋コンクリート)着工
1964(昭和39)年11月 中札内橋完成
1965(昭和40)年11月 上札内橋、永久橋として完成
1972(昭和47)年9月 台風20号による洪水。降雨量上札内において350㍉
1975(昭和50)年5月 低気圧による洪水、上札内において350㍉
(新中札内村史 平成10年3月31発行 掲載分のみ)
中札内村の歴史
ここで中札内村の歴史について少し触れてみましょう
1905(明治38)年:現在の中札内村となる地の開拓が始まる
1909(明治42)年:幸震第二教育所開所(現上札内小学校)
1912(明治45)年:帯広・上札内間国道開通
1914(大正3)年:幸震中札内教育所開所(現中札内小学校)
1916(大正5)年:上札内・大樹間国道開通
1926(昭和元)年:帯広広尾間に乗合自動車開通
1929(昭和4)年:国鉄広尾線帯広・中札内間開通(中札内駅開業)
1947(昭和22)年:大正村から中札内・更別分村、役場仮庁舎農協2階に置く
1948(昭和23)年:中札内村役場庁舎新設
1954(昭和29)年:札内川発電所竣工、農村地域電灯つく
1955(昭和30)年:札内川大洪水、札内川発電所流出
1964(昭和39)年:一般国道236号線、帯広・中札内間舗装完成
1968(昭和43)年:中札内村役場庁舎新築、移転。村民憲章、村歌、音頭の制定
1972(昭和47)年:第1回やまべ放流祭
1977(昭和52)年:開村記念日(9月1日)制定。村花(すずらん)、村木(かしわ)、村鳥(ひばり)制定
1978(昭和53)年:札内川園地南札内渓谷にレストハウス完成
1987(昭和62)年:旧国鉄広尾線廃止
1996(平成8)年:アグリパークが道の駅に指定、第1回北の大地ビエンナーレ開催
1997(平成9)年:開村50周年式典
1998(平成10)年:札内川ダム竣工
1999(平成11)年:第1回ガーデニングコンテスト開催
2002(平成14)年:神奈川県川越市と友好都市提携
札内川に関わる河川氾濫を除いた最初の記録に昭和29年の「札内川発電所の竣工」があります。
中札内村における電力の導入は、戦前の昭和6年と比較的早い時期です。
ところがまだ未整備区間が多く、郊外や山間部に電力を届けるのは、戦後になってからもしばらく待たねばなりませんでした。
昭和6(1931)年10月16日、待望の電燈が完成した。
帯広~中札内間に電灯100灯、電柱250本の架設完成。まだ未整備500戸が暗いランプの下での生活であった。
昭和26(1951)年4月28日、電気事業開発のため以前から検討を続けていた自家用小水力発電所を札内川上流に建設することを決議した。本村の未電灯解消のためである。
同年6月6日、札内川小電力発電期成会を結成、中札内村長榎本一雄が会長となる。
同年8月11日、総工事費1億4,600万円(主として農林漁業資金からの借入)。着工の運びとなる。
受益者1戸負担 45,000円、ほかに屋内線は10,000円かかると言われていた。
同年8~10月、札内川発電所現地調査が行われる。
昭和26年より2年過ぎて工事完成の見通しがつく。
昭和29年1月25日、札幌通産局検定合格。発電所完成が近づいた。家庭の中は夜が明けたように照らされ、その光は中札内の明るい誕生の祭りのように賑わった。
昭和29年6月10日、札内川小電力発電所完成。送電を開始する。
昭和29年1月31日、札内川電力利用組合が設立される。受益関係:大正村・更別村・中札内村
昭和30年7月3日、4日の大雨、札内川大洪水。発電所全滅。雨量は上札内63ミリ、発電所付近150ミリ、札内川大氾濫。ダムは砂利でふさがり、水路上水路水槽の決壊、建物倒壊、発電所基礎沈下、発電所全滅となった。
昭和30年8月2日、札内川電力利用組合総会開催。発電所の復旧は可能か、奥地の河川切替ができるか専門家による現地調査の結果が報告され、復旧・河川の切替は全く望めないとの結論が出た。
その結果、北海道電力の受電切替することを決議する。幸いにして何時でも北海道電力充電に切替できる設備がされていたのである。
同年8月、北海道電力株式会社切替受電・送電開始。幸いにして切替装置ができていたので受益者に迷惑はかけなかった。
しかし、発電所の無残な姿を見て、住民は「多額の費用を投入わずか1年で無くする事は残念である」「仕方がない」涙をのむ姿が見受けられた。しかこれが基礎となり、無電灯が解消せられたと言えよう。
昭和48年3月、札内川電力利用組合、受電、送電の完成を見たので解散する。
(東戸蔦部落史 昭和55年12月15日発行 「電気と電話」の項より。)
電力ダムの壊滅後すぐに北海道電力からの送電がすぐに開始できたのは、札内川小電力発電所の完成・送電初期から設備に不具合等のトラブルがあり、送電が停止する事態がありました。その対策として送電切替にかんする整備も行われていたそうです。
また、送電開始後間もないころから、施設設備に亀裂が見つかったこともあったと「中札内村史」から読み取ることができる。
設備トラブルによる電力供給停止時の対策として北海道電力からの送電切替装置を設備した事は、正に「不幸中の幸い」でした。
こうして、わずか1年で発電所施設は放棄されたことになってしまいました。
でもこう考えられないでしょうか? その大雨の夜、発電所ダムは、その堤体を犠牲にして砂防ダムとなり、下流を守ったと…
上流から流されてきた土砂が発電所ダムの堤体前に積もり、土砂がオーバーフローした状態で堤体は沈下。
…でありながら、洪水後のダム堤体そのものは、土砂を受け止めた状態のままそこに留まっていた。
この大洪水以降、札内川の治水事業・砂防ダムの建設が計られ、札内川は静かな清流へと変わりました。
たくさん造られた砂防ダムのひとつ『札内川第1号砂防ダム』は、堤長東洋一の長さ(348m)の砂防ダムなのだそうです。
さらに上流では1998(平成10)年に札内川の治水と灌漑および水力発電を目的として札内川ダム(重力式コンクリートダム/多目的ダム)が竣工。
ところで旧小電力発電所は壊滅的な被害を受け発電所機能・施設が放棄されてから、その後どうなってしまったのでしょうか…。
電力の受益者たちが建設にも携わり、待望の灯りが闇夜の家の中を明るく照らす様に「村の新しい時代の夜明け」さえ感じさせた発電所が、稼働わずか1年で甚大な被害を受けた現場をそのまま公園として整備、観光地化…とは、感情的にまだ、できなかったでしょう。
札内川園地
日高山脈襟裳国定公園の山裾に抱かれた札内川園地は、村民の憩いの場として、また雄大な自然を求めて訪れる観光客、中部日高の登山に挑む登山者たちにも人気のスポットです。緑が萌え始める春、紅葉が山々を彩る秋の風景は素晴らしく、キャンプ場や周辺の公園・パークゴルフ場は家族連れなどで賑わっています。
(中札内村観光ガイドブックより)
キャンプ場利用料は無料(バンガローのみ有料)で、広い園内。札内川の清流で遊べる場所もあります。
7月の第1日曜日には「ピョウタンの滝 やまべ放流祭」が盛大に催され、今年で42回を数える。
先の村の歴史の中、昭和47年に第1回が開催されており、以降毎年開催されていることが伺えます。
すでにお分かりでしょうが、ピョウタンの滝の正体は大洪水で土砂に埋没した小電力発電所のダム、通称「農協ダム」です。
園内表示版にも記載されていますが、高さ10㍍の堤体は、そのまま滝つぼの姿となり、清流のしぶきを上げている。その端へ目をやると確かにコンクリート構造物的な堤体が見えています。
手前の流れを分けている大岩は、大洪水で流された岩盤の名残かと思っていましたが、ダム建設時の写真にも同じ形の岩があり、元からそこにあったもので、この岩にダム堤体を押さえさせていたようにも思えます。
第二の人生(?)を歩み出した「ピョウタンの滝」。
その始まりは、いつからのことなのだろうと昭和41年刊行の「中札内史」を開くと…これが全く載っていません。発電所の建設と洪水による壊滅的被害と小電力ダム利用組合の災害後の動きに関しては記述されているにも関わらず、発電所やダムに関する後の様子は出てこない…。まだ「中札内村史」には観光の項が設けられていないため記述漏れかもしれない。
その答えは平成10年に刊行された「新中札内村史」の第4編、第7章「大自然を観光施設として」の4節で詳しく触れられています。
園地整備の始まり
小水力発電所の貯水池を目的とした一名「農協ダム」が昭和30年の洪水によって埋没し、1ケの滝と化し、ピョウタンの滝と名付けられたのはいつからかは明らかではない。
左岸一帯の平坦地はこの洪水時には現場宿舎があり、当時は現在の札内川ダム工事用道路具金を林道整備していたといわれ、左岸の平坦地はその拠点となっていた。
その後、洪水の跡地整理に関して、土地の所有権者である営林署は、この一帯をレクリエーションの森として位置付けし、環境整備に着手したのが始まり…とみるべきかもしれない。その時に「ピョウタンの滝」と名付けられたとも想われる。
当時、トムラウシ川付近をヒョウタン沢と称していた様に記録されていることからピョウタンの滝と呼び始めたのかもしれない。
ピョウタンとは「ピヨロ・コタン」(小さな砂利の多いところ)が語源であるが、「手のひらを立てた様な渓谷」を“ピョウタン”と呼称することには疑問がある。また、ピヨロ・コタンであるならばアイヌの家が1戸もなければ「コタン」と言わない。
ヌーナイ川の出合の反対側の右岸から流入している小川が、「ピョウタン川」と名付けられていることからも、滝は「ヒョウタン」と名付けられたものが、いつしか『ピョウタン』と呼ぶようになったとみることが正しいのではないかと判断される。
この一帯を「村民憩いの場」として活用したのは、あの大洪水があってから20年を経過した昭和51(1976)年のことである。
農協ダムと発電所施設跡は実に20年もの間、札内川の上流で廃墟同然の姿で静かに時を待っていました。
園地と道路の整備のほか、観光資源化の方策のひとつとして1972(昭和47)年5月に開催されたのが「第1回やまべ放流まつり(当初は祭りというより事業として)」です。
当時は「何のために川に魚を…」と認識されたようですが、やまべ養殖事業の興産に結び付け、一方で「風変り」と見られる放流事業により村民はもちろん世論を南札内渓谷に注がせる狙いがあったのでは、と編者は論じています。
翌年以降も放流祭は行われ、この動きと合わせ電力ダム下流で札内川を横断できる橋の建設に関わる予算獲得運動が強まって行く。
昭和49年から「放流祭」としてイベント色を含めていった。この年10月虹大橋完成。
以降、アトラクションとして「平原太鼓」や「ナウマン太鼓」が出演。この頃、橋が完成したにも関わらず放流祭は右岸で行われており、左岸園地部分は、まだ駐車場として利用されているのみだったようです。
イベント色が濃くなっていくにつれて人々は放流祭の重充実と会場の整備を求める声となりました。昭和51年以後、やまべの解禁日が7月1日であることから7月第1日曜日に「放流祭」が行われることになります。当初は小径木の伐採、伐根整地、花壇設置程度にとどまっていましたが、林野庁への積極的な働きかけからこの渓谷が「南札内渓谷札内川園地」に指定され、村が施設整備を行うことが許可されて昭和52年度から本格的な整備が行われるようになりました。
ダム一夜にして滝と成る
札内川のひと暴れは村のシンボルとなる景観を作りだしました。
でも、洪水後の惨状を見た人は現在の札内川園地の姿を想像できたでしょうか?
治山・治水 自然との戦いに終わりは無いのです。
参考及び画像引用:
「中札内村史」 昭和43年11月6日発行
「新中札内村史」 平成10年3月31日発行
「東戸蔦部落史」 昭和55年12月25日発行
観光パンフレット「花と緑とアートの村 中札内」 中札内村観光協会発行
観光パンフレット「札内川園地」 中札内村観光協会発行
ウィキペディア:「中札内村」「札内川」の項
※札内川小電力発電所の遺構はピョウタンの滝から札内川下流の右岸にあります。夏場は緑に埋もれてしまうので位置の確認は難しく、一帯はヒグマの行動エリアでもあるため山岳センターで情報を求めることをお勧めします。撮影画像は早春に撮影したものです。
とんとんページの中札内村の観光・グルメ・お買い物スポットの紹介
日高山脈山岳センター(札内川園地)
キッチンカフェぴよろ(札内川園地)
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