- 2015-04-08 (水) 12:57
- ワンダーFULL TOKACHI | 帯広・十勝 | 癒し | 観光スポット
- 投稿者:ケラアン
蝦夷文化考古館 (幕別町 千住)
(=´ω`)ノ イランカラプテー(こんにちは)
ケラアンです。『ワンダーfull TOKACHI』も第20回。
十勝の知らなかったこと、 不思議なところ、 意外なところ
そして「知っていたけど見たことがなかったこと」 そんな原風景を探して色々調べてます。
帯広市街地の北部を通る国道38号線。
帯広神社前を東へ向かうと、間もなく十勝川と合流する札内川、そしてそこに架かる札内橋を渡りきると、隣町の幕別町・札内へ入ります。
札内地区は本町から離れているとはいえ、古い時代には駅逓も開設され、鉄道が敷設された頃も駅が設けられ発展しました。
帯広市に隣接していることから1975年ころからベットタウンとして発展、住宅地が広がります。現在は大型店舗もたくさんあり、暮らしに便利で人気の街。
幕別町は、1906年(明治39)に幕別村、止若(やむわっか)村、咾別(いかんべつ)村、白人(ちろっと)村、別奴(べっちゃろ)村の5村が合併し二級町村・幕別村となったところから始まり、2006年には旧忠類村が編入合併し、パークゴルフ(幕別)とナウマン象(忠類)に象徴される町。
ウィキ調べによると『大正金時豆』が発見されたのも幕別町なのだそうです。
山岳といった高地を有する町ではありませんが札内市街を越えると、夏場などは十勝を象徴する緑色のパッチワークのような田園風景が広がっています。
町名の由来は、アイヌ語の『マクンベツ』にあり、「山際を流れる川」を意味している。
町を流れる川は、十勝川を始め、札内川、途別川、猿別川、当縁川が大地を潤し、晩成社の依田勉三が稲作に成功を納めたのも幕別町依田地区であり、帯広市と共に十勝の礎となった土地に違いありません。
町内を流れる途別川沿いには、明治、大正から昭和にかけて国民歌人として親しまれた若山牧水が東大雪と日高の山並みに感嘆し、一晩の我慢と投宿した宿を翌朝に連泊に変更したという黒田温泉跡もあり、「水の利」にさえ古のロマンを感じる町なのです。
今回の「ワンダーFULL TOKACHI」は、この「途別川」を下ったところにある小さな文化資料館のお話です。
国道38号線を札内市街を通り過ぎて幕別本町へ向かう。市街地が途切れてから程なく途別川にかかる千住橋を渡る。
この橋を過ぎてすぐ左側、何やら変わった感じの民家とは例えにくい古建築の建物を見たことはありませんか?
車で前を通ると、あっという間に通り過ぎてしまうのですが、小さく看板が建っていて、蔵にも道場のような看板が架けてある。
ちらっと目に留まった文字が「蝦夷文化」。
難しいけど目に留まるりやすい文字。どうやら文化的な施設のようです。
そこが幕別町の観光ガイド等にも紹介される『蝦夷文化考古館』。
現在は幕別町が管理する文化資料展示館ですが、創設は土地と民族を誇り高く愛した男性の尽力により誕生しました。
小さな…でも志し大きな資料館
幕別町千住の辺りは、かつて「白人(チロット)」というひとつの村でした。「チロット」はアイヌ語の「チリロクト」。『鳥が座る沼』という意味で、アイヌの人々の言葉を漢字で音写しています。
この白人村になる土地にアイヌ民族が住みついたのは寛延2年(1749)と伝えられており、その多くが北見方面から移住してきたといわれています。
白人(チロット)コタンのアイヌの指導者であった故・吉田菊太郎氏は、昭和15年(1940)、北海道アイヌ文化保存協会(会長を勤める)を組織。
その頃、チロットコタン・十勝アイヌの伝統的な民具や着物類などが、いつの間にか自分の身近なところからも消え、散逸していくことに吉田氏は心を痛めていました。そこで資料館を建て、先祖が残した民具を始め、和人(本土から来た日本人)との交易によって手に入れた行器(シントコ)などの宝物を永久に保存しようと決意。
手始めに吉田氏は資金源調達のため、昭和33年に「アイヌ文化史」を執筆・発行。この冊子の推薦を当時の北海道知事・田中敏文氏、北海道大学教授・高倉新一郎氏、十勝支庁長・安田貴六氏、幕別町長・中島国男氏らに願う。この冊子は吉田氏自らが府県を行商に歩き、中島幕別町長や幕別議会にも陳情。議会で助成することが決定し、これに吉田氏の自費と有志からの寄付を集めて考古館建設の目処が立ちました。(総工費200万円)
このころ吉田氏は、萱野 茂(かやの しげる、アイヌ文化研究者であり、彼自身もアイヌ民族である。アイヌ文化、およびアイヌ語の保存・継承のために活動を続けた。二風谷アイヌ資料館を創設し、館長を務めた。政治活動面ではアイヌ初の日本の国会議員。1926 – 2006)との交流も氏の遺品に萱野氏の名刺が残されていることから同胞として繋がりがあったと思われます。
考古館建設が決定したことから吉田氏は、その予定地として自分の家を解体・提供。あらかじめ収集・委託されていた資料を保管する部屋の広さなどを考え、かつ火災に耐える建物の設計を何度も繰り返したといいます。
吉田菊太郎氏が考古館建設のために書した陳情書
アイヌ文化考古館建設についてお願い
(前略)鎌倉時代から本道開拓のため移入する内地人の奴僕となって、深い茨を分けて道しるべとなり、或は河に丸木舟を操って荷役に努め、開拓移民の先駆者として文字どおり犬馬の労に身命を曝す。その酬(むくい)として与えられた品々及び物々交換に依って求めた諸々の物が宝物として先祖は大切に保存し、子孫に遺したのでありますが、之等の古俗品も滅亡する者と共に果敢なく消え失せつゝあることは誠に悲惨な状態であります。
先住民アイヌの先祖に対する餞(はなむけ)として、将た又向後の考古資料にも役立たせようということから、白人古潭のウタリが中心となり、北海道アイヌ〔文化〕保存協会を組織し、古俗品を蒐集して一堂に収め永久に保存する事と、ヌサを設けて先祖が行ったカムイノミの祭り事も今のウタリが生存している間だけでも実行することが同族の義務であるとして、白人古潭にある勅使御差遣記念碑の附近に於いてアイヌ文化考古館(仮称)約30坪、総予算200万円位を建設する企画を樹テ(後略)」
吉田氏と関係者の尽力、および陳情運動によって『蝦夷文化考古館』は1959年(昭和34)完成。館内に展示されているものは、一本木の丸太舟、黒曜石製の石器、刀剣、弓矢、矢筒、盃、酒桶、着物等の生活用品、宝物とされていたもの、写真、書類等、これらすべてアイヌ文化・北方民族文化、そして北海道の歴史文化的にとっても大変貴重な品々です。
文書資料は幕別・十勝、白人・千住、考古館、人物、各種行事、書簡、地図、賞状、名刺など。この資料は明治20年代からの資料を多く含んでおり、明治期の十勝アイヌが置かれた状態を知る上でも貴重な資料とされる。
資料の内容には三つの特徴がある。
第1は、内海勇太郎が中川郡十弗村外九ケ村の「旧土人共有財産」の管理事務に携わっていた明治期の関係資料がまとまって残っていること。
第2は、アイヌの農耕地に関する資料であること。
第3は、大津市街の様子や十勝太市街の形成など、明治・大正期の十勝を知る材料が含まれていること。
建物延面積は124.44㎡(38坪)、そのうち展示室は42.6㎡(13坪)で管理人室は81.8㎡(25坪)。
吉田菊太郎は展示室を宝物堂とし、ベランダは地域の検診室とし、管理人室は六畳二間でそれぞれを居間と台所と考えていた。
「蝦夷文化考古館」の機能は単に過去の物品等を収集した歴史資料展示館としたものではなく、それらを未来へ託し民族の誇りと文化を可能な限り継承させるための「よりどころ」としての機能を託したのではないかと思います。
構造は主としてブロック建築(一部モルタル)、鉄板葺きの屋根には鬼瓦も見え、大きな蔵と棟続きの母屋という印象。
和風の造りながら、どこか洋風さも感じさせる。しかし多文化的にも思えない不思議なイメージがします。
展示室の中は、資料室というには似つかわしくない、広い板敷きの広間のような雰囲気。
中央に大きな丸太舟がありますが、これを外へ出せば、今でも十分集会を開くことも可能に思える。おそらくは、有事には利用できるという構想もあったのではないでしょうか。
吉田菊太郎という人
1896(明治29)年7月20日 父トイペウク(吉田庄吉)母アシマツ(マツ)の長男として幕別村白人にて誕生。
アイヌとしての名は「アリトムテ」
【アリ】 ①~と ②置く・残す ③火を焚く ④~で
【トムテ】 光らせる・輝かせる
その名前の具体的な意味を計りきることは難しいのですが、アイヌの文化の保存し、輝かせることに尽力した人であることは、経歴からも見えてきます。
1903(明治36)年4月 白人(チロット)尋常小学校入学。
1909(明治42)年3月 同校卒業。4月幕別高等小学校入学。
1911(明治44)年3月 幕別高等小学校卒業、農業に従事する。
1924(大正13)年6月16日 幕別互助組合設立、評議員に就任。
1927(昭和2)年5月8日 十勝アイヌ旭明社創立(喜多章明社長)に参加。
1929(昭和4)年7月8日 精神修養と生活改善を目的とする白人古潭(チロットコタン)矯風会創立、会長に就任。
1930(昭和5)年1月 「旧土人保導委員」に選任される。
同年3月16日 白人古潭納税組合を組織、会長に就任。
同年10月 白人古潭矯風会館建設。
同年12月 白人共栄甜菜組合を組織、組合長に就任。
1931(昭和6)年 北海道アイヌ協会『蝦夷の光』2号、3号編輯兼発行人。
1932(昭和7)年3月 方面委員に任命される。
同年4月 幕別村会議員に初当選。
1934(昭和9)年1月 道長官より白人古潭納税組合が表彰を受ける。
1936(昭和11)年4月 議員再選。
1941(昭和16)年2月 納税功労者として道庁長官より表彰を受ける。
1946(昭和21)年2月 社団法人北海道アイヌ協会副会長に就任。
同年10月 十勝アイヌ協会を結成し会長となる。
同年11月 社会事業功労者として厚生大臣表彰を受ける。
1947(昭和22)年4月 幕別町農業会長に就任。
1958(昭和33)年5月 古館建設費作りのため「アイヌ文化史」を発行。北海道アイヌ保存協会会長として本州各地で講演・陳情活動を行う。
1959(昭和34)年12月 考古館落成
1964(昭和39)年11月 北海道新聞社会文化賞受賞。
1965(昭和40)年1月 心筋梗塞により逝去。
考古館の設立に関する活動は、吉田氏が晩年より本格化したことで、氏の行動は勢力的というほかありません。
その完成後も自ら館長として就任。学校等での講演や更なる貴重な資料の収集に奔走し、幕別町も吉田氏の応援をしてきました。
この活動が認められ、吉田氏に昭和39年11月、北海道新聞より社会文化賞受賞が授与されました。
しかし、その2ヶ月後の1月6日、吉田氏は突然の病により倒れ、家族や友人が見守る中、永遠の眠りにつきました。享年69歳。
遺族は故人の意志を尊重し建物ならびに収蔵品のすべてを幕別町に寄付。以来幕別町教育委員会が考古館を管理している。職員は専門職員を置かず管理人を置いている。初代の管理人は菊太郎氏の妻「いさの」氏。
「幕別蝦夷考古館」開設の事業は、吉田氏が晩年に至ってからの事業で、開館当初は「アイヌ文化考古館」という名前であったそうですが2年ほどで現在の名前に改称されました。(この時期と理由については不明)
この頃、北海タイムス紙において「ひとつぶの麦 アイヌ古老と考古館 古俗品保存に心血 東奔西走十年、目的達す」のタイトルで紹介される。
これを期にアイヌ民族の伝統をたたえる古俗品が続々よせられ、百点を越える陳列品は見学者の人気を博しました。
この吉田菊太郎氏の悲願が考古館の完成として結実したのですが後年、心無い事件も起きてしまいました。
事 件
平成5年2月16日、貴重な展示品が盗難される。
盗まれたものは、エムシ(飾り刀)7振り、パスイ(捧酒箆)28点、イタンキ(お椀)6点、エムシタリ(刀ひも)、トゥキ(神事用の杯)8点など被害合計は65点。
その後、犯人が逮捕されたが、盗まれたもののほとんどは、すでに第三者に売り渡されたあとであり、蝦夷文化考古館へ戻ることはなかった。これは収蔵品全体の22%にもなる損失で、金額にしておよそ500万円相当に及んだという。
土地の文化は、その土地にあってこそ意味があり、真価があるものだと思います。
歴史的・骨董的な価値だけでものの真価を計り、その背景にある文化的価値を失ってしまう例は、実は少なくないのかもしれません。
現在は古くなってきたこともあり、決して綺麗ではない建物ですが、厚いガラスの向こうに飾られた遠い昔の遺物よりも手を伸ばせば触れられる(それは基本的にダメでしょうが…)ほど近い展示品は、古いものというより『ものを語らぬ語り手』のようで、知らず知らずのうちに心にそっと触れてくるのでした。
イランカラプテ (あなたの心に そっと触れさせてください)
参考・出典:Wikipedia 『吉田菊太郎』の項
『北海道・博物館と人 -博物館を支えた20人の生涯-』 CERO叢書 2011年発行
『アイヌ文化史』 吉田菊太郎 著 昭和33年発行
幕別町蝦夷文化考古館
幕別町千住114番地1
入館料:無料
休館日:毎週火曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始(12月30日~1月5日)
開館時間:午前10時~午後4時(展示館は施錠されているため、棟続きの管理室の方へ観覧の申し込みをしてください)
※帯広市から向かうと、幕別町の国道38号線沿い、途別川にかかる千住橋を渡りきった、すぐ左側です。千住橋の前後は坂になっているため見通しがよくありません。橋の手前からの減速、舎監の確認、早めの左折表示をお勧めします。
反対方向からも対向車にご注意ください。
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