- 2015-07-21 (火) 22:00
- ワンダーFULL TOKACHI | 未分類 | 観光スポット
- 投稿者:ケラアン
史跡 ユクエピラチャシ跡(陸別町)
陸別町市街を見下ろす高台にあるユクエピラチャシ。
街を見下ろす高台にあるチャシですが、季節が進み緑が溢れ出す今頃は、街からその姿をハッキリと確認することはできない。
しかしその地へ設けられた園路からその砦へ向かうと、開けた見通しの先にそれはあった。
自然の中に溶け込みながら異彩を放つ…それでいて過大な自己主張はないのだ。
この景観には何か特別なものを感じる…
一説には砦 または狩場、祭礼場。あるいは人の争いを神々が静かに傍観する聖域。
その名前は決して神々しいものなどではなくエゾシカ(ユク)の名を携えているだけなのだ。
であるが、この大地に有るものは全て神々より施されたもので神そのものなのです。
少なくとも、そう信じた神に一方では翻弄され、助けられ、癒されてきた。
そうした恐れ多い存在に対し、むしろ我が身を晒すように築いた目印が「チャシ」なのではないかと
ふっ…と、思ったりしたわけです。
チャシとは?
“チャシ”は近年までは考古学の研究対象ではなかったそうだ。
一端には、松浦武四郎チャシの建造そのものが、どちらかと言えば近世よりの性格が強く研究対象の認識が浅く調査に遅れがあったことがある。
しかし、江戸時代に記された北海道に関する古事録にも「チャシコツ」の存在は登場し、「十勝日誌」を記した松浦武四郎も一部に記録したるものもあるそうだ。
用途は諸説あるが、主に「砦」であったとされている。
他にも聖域、祭事場、談合の場、見張り場…そのどれもが正しくもあり、間違いでもあるように思える。
小高い丘や崖の見通しの良い高台部分に壕を築き、造成時には塀も築かれていた痕跡も見られていたというが、現在は壕(窪地)だけが残されているだけであるため、「チャシコツ(コツ=谷間、窪地の意味)」と言うのが正しいとされている。
よって、現在では「チャシ」ではなく「チャシ跡」と説明されています。
北海道には先史時代の中の区分に「擦文文化」と言われる時代があり、これがおよそ13~14世紀頃に終末を迎えたとされています。
そして和人(本土の日本人)の文献として「チャシ」の記録が見られるのが17~19世紀。
しかしこの時点で「チャシ」は「チャシコツ」と記録されている。すなわち“既にチャシでは無くチャシの跡”となったと文献は記録しているわけです。
擦文時代からアイヌ文化に至るまでの空白期間。その頃に大いに築かれた「チャシ」がその謎を解き明かす鍵と言われているのです。
チャシは、アイヌ文化期(13~18世紀の間)に高台の突端などに築かれ、確認されているだけでも道内には500を超えるチャシ跡があり、主に北海道東部の河川や湖沼、海岸沿いに多く分布している。十勝地域においては70箇所が確認されており、その分布は十勝川中流域、利別川沿い、旧利別川左岸、十勝川下流域のグループに分けられるほか、「史跡オタフンベチャシ(浦幌町・直別)」のように太平洋岸に立地するものもある。
用途が文献として残されていない背景には、アイヌ文化が文字を使用せず口頭による継承が主で、伝承などにチャシが盛り込まれててもチャシそのものが語られていなかったこと。言い伝えによるチャシの意義が「砦」であったり「祭場」であったりと差を生じていること。
予め用途は決められていたにせよ、時代の移り変わりでチャシの意義に変化が生じたかもしれないということも曖昧さにつながっているのかもしれません。
砦、祭事場、チャランケ(談判※)の場…等々 いずれにしてもチャシは地形を利用しつつ人為的な造作を施したものに他ならない。
※アイヌ社会における秩序維持の方法。集落相互または集落内の個人間に古来の社会秩序(おきて)に反する行為があった場合、その行為の発見者が違反者に対して行うもの。違反が確定すれば償いなどを行ない、失われた秩序・状態の回復を図った。
─文献による「チャランケ」は、押し問答で相手をやり込めて家宝や土地等を奪い取るというような印象もあり、雄弁な者が優位にはたらいていたためか、後の時代、政府により禁止措置が取られた。陸別に伝わる英雄『カネラン』もまた、持って生まれた雄弁さで行く先々において「チャランケ」で宝物を取り上げていたが、後の失敗に改心し、コタンの長にふさわしい人となったという。
ユクエピラチャシ跡
陸別町には現在までに12箇所のチャシが確認され、利別川沿いグループの最上流に分布している。
町内にあるチャシはさらに大きく4つのグループに分類されている。
①足寄町と接する南側のグループ
②町の中心部から約2㎞南のに並ぶグループ
③町の中心部付近のグループ
④町の中心部から北へ5.5㎞の最上流域のグループ
チャシの形状は様々で、壕が2条になるもの、壕が直線状、壕の深さや幅などが異なる等、ルールが用いられるというより元の地形を考慮に入れて作られたとも考えられます。
「ユクエピラチャシ」はこのグループの中の④に属し、市街地を見下ろせる位置にありました。
構造は3つの郭(くるわ)が連結した複雑な形態で、規模は盛土部分を含め長軸128m、短軸48m。およそ450年前(室町時代末期から江戸時代初期頃)に作られた北海道内最大級のチャシ跡。
「ユクエピラ」とはアイヌ語の ユク・エ・ピラ(エゾ鹿・食べる・崖)から成り、『シカが餌を食べる崖』あるいは『エゾ鹿を食べる崖』の意味となります。あるいは単純に『エゾ鹿のいる崖』とする説もあります。
近年の発掘調査で大量のシカの骨が出土していることからエゾ鹿を捕獲し、実際にこの場で食していたとされている。
ユクエピラチャシのある山は、陸別町開拓の祖、関寛斎(せきかんさい 1830-1912)が入植し、自ら『青龍山』と名付け、好んで散策した所であったという。寛斎は、このチャシを重要な史跡と考え、保存に努めていたという逸話もある。陸別開拓史上でも重要とされるこの地には寛斎の業績を讃える顕彰碑と関神社が置かれており、チャシそのものより関斎の碑がある場所という認知の方が強くなっているようです。
(関寛斎が入地し、牧場を開いたのはこのチャシより斗満川を挟んだ南西700mに位置している。チャシの地は寛斎の息子の又一に同行した片山八重蔵の居住地であったという。齢70にして北海道開拓に奮起した関斎は、チャシ跡の上から急速に発展していく陸別の街を見下ろして満足していたのかもしれません)
史跡ユクエピラチャシ跡は、1975(昭和50)年4月1日、陸別町文化財指定を受け、同年11月22日に北海道文化財指定を経て、1987(昭和62)年9月8日に国の史跡に認定されました。
しかし、このチャシ跡がある利別川沿い右岸は極曲地点にあり、崩落の危険性(実際、このチャシ跡は、原型の半分以上が崩落で失われている)があるため、陸別町教育委員会は、1992(平成4)年、史跡用地の購入を進めるとともに崖面の工事測量調査を行い、翌1993年より保護工事を施工。
1997(平成9)年には「保存管理構想検討専門規則」を制定し、町外の学識経験者を交えた遺跡管理方針を検討。「保存管理構想報告書」にまとめる。
1999(平成11)年、構想の具体化に向け基本計画策定に着手。同時に基礎資料収集を目的とした現地試掘調査を行い、併せて地形測量を行う。
保存計画整備基本方針は8つの項目からなる。
①遺構周辺の歴史的環境および自然環境の保全を第一とする
②考古学、民族・文献資料調査等の研究成果に基づき保存整備計画を検討する
③保存整備にあたり、郭壕、盛土等の発掘調査を継続し、計画に盛り込む
④発掘調査後は遺跡保全のため、早期に埋め戻した後に整備する
⑤保存整備後の公開、活用を検討する
⑥保存整備関連事業として、来訪者へのサービスを目的とした設備計画やサイン(案内板)等の計画を検討する
⑦道内のチャシや関寛斎資料館の展示内容とも連関するような保存整備とし、来訪者の再来を促すような計画を検討する
⑧史跡チャシ跡と町指定文化財関寛斎翁碑並びに関神社跡の整備方法については双方の望ましいあり方を検討する
2002年~2008年(平成14~20年)に及ぶ事業(発掘・整備)により史跡ユクエピラチャシ跡はおおよその復元を見せることになります。
調査の過程で分かったのは、このチャシは珍しい『白いチャシ』であったことでした。
壕を掘り上げた際に出た火山灰とロームを壕の外へ丁寧に盛り上げたことで周囲から浮き上がるような特殊な景観に仕上げられました。(この復元作業には多くの町民ボランティアの協力がありました)
遺跡からは10万点に及ぶ遺物が確認。その多くは「ユクエピラ」の名にふさわしく8割がエゾ鹿の骨。他にも刀などの鉄器・銅製品、ガラス玉、陶磁器、銭貨が出土。
史跡表、説サインボードのほか、新たにチャシ跡を見渡せるビューポイントが設けられ、史跡までを結ぶ園路は柔らかい木材チップが敷き詰められ、チャシ跡は時代を超えて陸別の空の下で輝きを取り戻しました。
史跡ユクエピラチャシ跡へ行ってみよう
整備事業が完了して7年。ユクエピラは初めて訪れます。
草刈などをこまめに行い、整備されたビューポイントに始め、ゴルフ場へ来たような感覚になります。
(遠望で見た白いチャシはバンカーに見えなくも無いw)
チャシコツ内部へ入って見ると、敷き詰められた山灰のせいか、日本庭園風というか環境アートの雰囲気もありました。
道の駅りくべつ前の温度計が32℃に達したそのころ、ユクエピラチャシコツの木陰は大変涼しく気持ちの良いものでした。
静かな空間。聞こえるのは「りくべつ鉄道」の警笛…
「うーん…悪くないな…わるくない」
街が発展してゆく様子をここから眺めた関寛斎もそんな気持ちでここに経ったのかもしれません。
「史跡ユクエピラチャシ跡」道の駅から車でゆっくり走って10分程度の場所にある。
足寄方向へ国道242号線(通称:陸別国道)を進み途中から接合する道道502号線へ。
山際が近づくと間もなく道道502号線は左折しますが、そのまま道道を離れ、細い舗装の道を直進します。(この辺りで史跡への順路案内板が掲げられています。(道道対向車に注意)
史跡への入口は砂利敷きで若干ダートのある道になりますが、登りきるとキレイに雑草を刈ってある駐車場があります。(要施錠)
すぐに指標と案内板が見えてその先にある芝の扇状地の先にユクエピラが現れる。
季節によりチャシ跡の景観は様々に変わりますが、左の園路からチャシ跡のところまで行くことが可能。チャシ跡内部に入ることもできます。(車両進入は不可)
ユクエピラチャシは、関寛斎の顕彰碑や関神社も建立されており、陸別市街の展望地としての側面もある。
当然チャシコツへも入ることは可能なのですが、遺構を傷つけたり、ゴミを残したり等なされませんように。
星降る里 陸別の夏空の下、白いチャシ跡の白さが照り返す光は、地上に降りた天の川のように また冬のオーロラのようにさえ思えるのかもしれません。
【参考文献】
『アイヌのチャシとその世界』 北海道チャシ学会編北海道出版企画センター 平成6年6月10日発行
『陸別町史(通史編)』 陸別町役場広聴広報町史編さん室 平成6年3月1日発行
『史跡ユクエピラチャシ跡 平成14-20年度整備事業報告書』 陸別町教育委員会 平成21年3月27日発行
観光パンフレット『史跡ユクエピラチャシ跡』 陸別町教育委員会
陸別町のTONxTONスポット
関寛斎は『陸別町の開拓の祖』という知識しかありませんでしたが、実は幕末から明治時代の医学を担ったともいえる蘭方医です。
この時代が好きな方には思った以上に楽しめる展示室です。
『しばれ』の町陸別ですが、盆地状の地形なので夏はそこそこ暑くなります。ソフトクリームが美味しい!
陸別のキャラしばれ君、つららちゃんグッズも人気。
往年の姿そのままに走るふるさと銀河線の車両。
この鉄道は癒しの路線なのです。
星降る里『陸別』は1997年度(平成9)「星空にやさしい街10選」に認定。夜の星の存在感に圧倒されます。
天文台の日本最大規模の口径115cm の反射望遠鏡で見る星空は最高!
アットホームな雰囲気の地元で愛されるお店。
銀河の森コテージ利用の際の買い出しに大変便利です。(9:30〜18:30 日曜定休)
司馬遼太郎の「街道を行く」十五―北海の諸道の関寛斎の章を読み終えた。北海道でも奥地中の奥地なんです。周りは本当の意味での原生林です。陸別出身の平林暁祐氏が司馬に語った。寛斎は開拓の労働に自分を投じ入れた。・・・入植後、二年で妻愛子を病死、十年後、八十三歳で自身の命を絶った。自ら選んだ厳しい道に感動した。 投稿者自身も83歳になろうとしている。全くの余談ですが、ネットで「陸別町」を見た。えっ、自分が幼少期を過ごした北見市の近くだったことを知った。